骨足りないし心臓多い

考えてること書く

勇気をもって宗教の話題に触れるよ

今回は久しぶりにかなり真面目に。いつぶりかに、信仰とセクシュアルの話をしてみる。

 

私は正直言って神を信じることがどういうことなのか、「神」の範囲がどこまで及ぶのか(聖典の内容のどのあたりまでは信仰の対象とされるのか)、というか、信仰という言葉が明確にはどうすることを指しているのか、全然分からない。

私は信じるという行為に対して幼い頃から非常に苦手意識を持っており、信じることが出来ない自分が本当にコンプレックスだった。大人になってみると、なんでも鵜呑みにしないということは単なる強みにもなってきたが、サンタすら信じられないうえに信じているふりまでこなした子供時代は、かなり、無理があった。世間が我々子供に求めている純真さが、私にはちょっとキツかった。そして、信じられないとつまらないことが多々あった。それを俯瞰している時点で楽しむ資格がないんだけど。

前にも書いたかもしれないが、私は幼稚園から高校までゴリッゴリのカトリック育ちで、遠い昔に遠い国にいたのかもしれないイエス・キリストという男を、そこそこ信ぴょう性が感じられる存在としては認識していた。少なくともサンタに比べると。

ただ、本当に信じるのが苦手だった私は、ミサと讃美歌に囲まれた14年にも及ぶ長い生活の結構序盤、確か小学校3年生ぐらいで、やっぱり無理がある、と感じ始めた。そして思春期を迎える頃にはこの感情は、「やっぱり信じられないな」なんていう曖昧なものから、「私は信仰を疑ってこそ私だ」という確固たる自己同一性に姿を変え、やがて私の精神の支柱には、信じられない神の倫理道徳の代わりに、退廃的で欲深い芸術が腰を据えることになった。私がこうしてものを書いているのは、カトリックへの否定に端を発しているといっても間違いではない。

この話は長くなるのでまた別ですることにする。今重要なのは、芸術に魂を売り渡すと決意を固めた少しあと、私が「カトリックは同性愛を認めていない」という事実に気付いてしまったことだ。

私が高校生だった時代(2011~2014)というのは、つい最近のことだと言われるかもしれないが、日本にもやっとこさジェンダーセクシュアリティにおける人権確立の黎明期が訪れた(かな?)昨今と比べれば酷い状況だった。そんななかで、自分が同性愛者であるという意識と向き合いたてホヤホヤの私が、ずっと、そのときも属していたカトリックの環境に、「自分は歓迎されていない」と気付いてしまった。そしてそれは事実だった。事実、私の高校時代、私たちは社会から完全に無視されていた。

それがカトリックの環境に限った話ではなかったのは言うまでもないが、ちょうど高校3年生のときに海外ドラマ「glee」を見ていたのが私にとって大きい。気高いゲイの才能ある歌い手であるキャラクター・カートが「僕は神を信じない。僕らを認めていないから」と作中で語れば、現実世界に共感してくれる人もありのままの自分を知る人もいなかった当時の私からすればそれは真実なのだ。そして同時に、「この宗教を信じていなくて良かった」と思った。板挟みになったり、そういう引き裂かれるような状況は嫌いだ。板挟みになったとき、人がどうなるかは想像に容易いだろう。地獄のような自己嫌悪だ。倫理と自分の本来の欲望がすれ違ってしまうという、生き地獄。

 

それから時が流れて、ちょうど私が成人した頃、フロリダで銃乱射事件があった。まさに私が危惧した生き地獄を生きる人による犯行だった。私はこの事件のことをずっと考え続けてきた。卒業戯曲でも取り扱った。あの事件は遠いところで起こったことではない、私が殺されていたかもしれない事件だ。忘れてはならない。今でも考える。たくさんの人が亡くなったこと、ゲイコミュニティがターゲットにされたこと、あの事件に、セクシュアルと、宗教が絡んでいたことを。

 

それからこのあいだ、二つの興味深いニュースがあった。

ひとつは、同性婚をする男性2人がケーキ屋にウェディングケーキを発注したところ、キリスト教徒であることを理由にその注文を断られたという事件。

www.huffingtonpost.jp

もうひとつは、ローマ法王が同性愛者を認めた、というニュースだ。

www.cnn.co.jp

 

この相対する二つの出来事が、時を越えて私を高校時代のあの意識に引き戻し、同時に生まれてきてから経験(厳密には経験していないが)したなかで最も凄惨な事件、フロリダ銃乱射事件に至るまでを一本の線として繋いだ。

私はカトリックの学校の教育のなかで同性愛が無視されていることを感じていた。積極的に否定されることはなかったが、触れられなかった。無知ながらも私は、無言の中からうっすらと、「人権のことがあるから否定は出来ないけど、宗教の教えとして好ましいとは語られていないから、話題に出せないんだろうな」と感じていた。まさにケーキ屋の一件はこの「触れたくない部分」に触れられてしまったんだと思う。

 

それじゃあ、カトリックは具体的にどうやって同性愛を否定していたのか?

「ソドムとゴモラ」に関する聖書の箇所をネットで調べて読んでみた。こういうとき聖書があると便利なんですよ~。

すると、「みだらな行いにふけり」「不自然な肉の欲の満足を追い求めたので」としか書いていない。

本当に神は同性愛を否定したかったのか? これだと分からない。もしかすると私の知らない隠語みたいなやつなのかもしれない。と思って、先にソドミー法のほうを調べてみたら、

 

ソドミー法(ソドミーほう、英語: Sodomy Law、発音: [ˈsɒdəmi lɔ'ː])は特定の性行為を性犯罪とする法律である。ソドミーの言葉が明確にどの性行動を示すかは、殆ど法のなかで詳細に説明されないが、裁判などでは主として「自然に反する」と見なされる性行動を指すとされる。「自然に反する性行動」は婉曲的な表現であり[1]、ここでの性行動は一般的に口内性交や肛門性交、獣姦が含まれる。この法が異性のカップルに適用される事例は稀である。」

 

と、出た。ここまでくると完全に、のちの人間たちのさじ加減で都合よく解釈されている筋でほぼほぼ間違いないんじゃないか。そしてこの法だとレズビアンがギリギリ脱法と取れなくもない。あまりにも曖昧すぎる。そもそも、「自然」がなんなのかという定義が分からない。穴が多すぎる。

調べてみて、完全に「キリストごめん、キリストのせいにしてごめんねホント」の気持ちでいっぱいになってきた。でも、だからといって宗教を許せるかと言ったらそんなことはない。宗教にはちょくちょく政治が絡んでいることぐらい、私がいくら馬鹿と言えども知っている。これまで、嫌というほど人間の歴史や争いが干渉してきたのは当たり前だ、それを含めて宗教だろう。そのあたりを度外視してやる気は毛頭ない。なぜなら、全て、言葉でしかないからだ。聖典も、説法も。

 

冒頭の話に戻る。信仰している人たちが信仰しているのは、一体なんなのか? 聖典は言葉で、聖人も永遠の命は生きられない。時代が、歴史が、政治が言葉の意味を変えていく。解釈は何通りでもある。「不自然」という言葉が何を指すと捉えるかは、一人一人違う。私なら、男と性行為をして子供を作るほうが不自然だ、マブい女と最高のセックスをするほうが自然の摂理のなかにあると感じる。ならば、一体信仰とはなんなのか、一神教なら皆が一つの方向を向いているのではないのか、そもそもそんなの無理じゃないか。ケーキ屋は神のために同性愛者を受け入れなかったが、カートや私は恋のために神を捨てた。「神を愛してる、でも僕はゲイ」そんな人もたくさんいるだろう、「神の教えに従って、たとえ自分と違うセクシュアリティーの人のことも平等に愛するわ」という人も絶対たくさんいる。今年のレインボープライドには、キリスト教の団体が「キリストはアライ」と掲げてブースを出していたらしい。それも解釈の一つだろう。そして、ローマ法王も、彼の解釈を表した。

 

私は疑うのが好きだ。何も信じないけれど、疑った先には夢やロマンがあるということだけは、信じている。何より言葉の意味するところを疑えば、その裏に隠された言外の可能性は、億千と広がっていく。

だから分からないのだ、人々が聖典の何を信じているのか。

でも、解釈が色々出来て、しかも歴史や政治に歪められていくのなら、むしろ希望が持てないか? どこまででも世界を幸せにする可能性を秘めていないか? 同性愛者のことだって救えるようになりはしないか。これは多分、信じるのが不得意な人間の突飛な意見に過ぎないだろうけど。一応そう言ってみたかった。

 

 私ももうカトリックと長い付き合いになる。因縁の相手だと思い続けて早幾年。世界一ドデカい宗教だし、たまにはいいことだって言ってると思う。それに、信者たちが世界に残した功績だって素晴らしい。マザーテレサとか。だからもう、「信じない」とか「信じるってなんなの」とか白々しいことを言うのはいい加減にやめたいんだ。

事情はもっと複雑になっている。レズビアンで、芸術に魂売った私と、カトリック、いや、この世に存在する宗教全部、これからもっと複雑に対峙していかなければいけない。長い戦いになるだろうけど、私は絶対に宗教の存在を無視したくない。お互いがお互いの輪郭を決定づけてきたのだから。そしてこれからも。

 

それから、出来ることなら「信仰する人々」が、選べずただ無作為に運命を割り振られて生まれてくるセクシュアリティというものを、信仰のために歪めてしまうことのない世界になることを望んでいる。宗教が変われば世界が変わる、フロリダで銃を乱射したあの人のような人も出てこなくなるかも。宗教はどこまでフレキシブルになれるのか、この時代の過渡期に生まれたからには、面白いものが見たい。

休戦

私の人生を形作った愛すべき敬うべき巨大な宗教であり宿敵、カトリックとの休戦を考えてもいいかと思った。

https://www.cnn.co.jp/m/world/35119558.html?ref=rss

ローマ法王が同性愛者の男性に対して「神はあなたをそのように作った」と言ったらしい。

個人的な経験として私は幼稚園から高校までコッテコテのカトリック教育を受けてきたが、世代的にもまだちょっと微妙なときに学生時代を過ごしたので、カトリックに対してはホモフォビックな感じを受けなくはない。

カトリックを宿敵と呼ぶ理由には他にもたくさんあるけれど、ローマ法王のこの発言で、その点に関してはもういいことにしようかと思った。

この宗教は世界で一番のマジョリティだし、これって大きなことだよね。また詳しく書きます。

疲労

ものを書かないと無理だ……生きられない……と言いながら働いています。

在学中、就職すると言ったら「一度創作に飢えるといいよ」と教授に肯定してもらったのを思い出す。まだ2ヶ月も経ってないのに早くも。

図書館にこもる時間が欲しいなあ。あと最近は仕事に必要なので英語の勉強をしています。言葉、意思疎通、のことを考えるのは苦しいけどやっぱり生きてるって感じがする。

ペーペー

大学2年でとある仕事と運命的な出会いを果たし、驚くほどその仕事にのめり込み、あまりにも専門的な内容のためにアルバイトで終わらせるのは惜しくなり、そのまま新卒として今年改めて所属し直した私だが、アルバイト歴3年の新卒というのは何かとレアなものだったらしく、研修中同期や先輩たちから「優等生」「神さま」「プロ」「新卒だけどベテラン」「先生」と色々呼ばれている。でも私ペーペーって言葉が好き、私ペーペーです!

語源を調べてみると、

http://gogen-allguide.com/he/peipei.html

「平平」ということらしい。一回ぺーぺー扱いしてほしい。社会人としてはまだひよこどころか卵です。

社会

こないだ社会人になりました、会社に勤めています。あなたは社会の一員なのよ、それらしい振る舞いをしなさい、自分のことに全て責任を持ちなさいと毎日言われるごとに、トイレの鏡で襟を正すようになったしハンカチを持ち歩くようになったしリュックのポケットを開けっ放しで駅を歩かなくなった。大学生だった頃より世界に対して肌が敏感になった、すぐに何かを感じる、考える、演劇が、人が、尊く感じられるようになった、就職してよかったなあと思う。

吸血鬼の話によく出会う

後輩にチケットをとってもらって宝塚歌劇団の「ポーの一族」を観てきた。ネタバレかもしれないので一応これから見る方は注意。

 

 

吸血鬼と何か縁深いのか、好きな作品の吸血鬼率がすっごい高い。私が生まれて初めて心酔したドラマである、児童小説「ダレン・シャン」もヴァンパイアの話。あと、ストーリー展開には「なんなんだ?」って思っちゃうけどどうしても好きで好きでたまらない映画も「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」。どうしようもないレスタト様が大好き。今日も"ポー"観ながら何度もレスタトのことを思い出してしまった。彼はこの世に存在する創作キャラクターのなかで多分一番どうしようもない奴だと思う。それから、小学校時代から私のバイブルである少年漫画「パンドラハーツ」、を、書いていた望月淳先生の最近始まった新連載「ヴァニタスの手記」もなんとヴァンパイアもの(めちゃくちゃ面白い、オススメ、まだ単行本4巻までしか出てないので買うなら今)だった。

 

こっからやっとポーの一族の話。まず、クリフォード医師が強烈だったな。なんというかこう生殖とヘテロセクシュアルの権化みたいな…笑

彼みたいな女癖が悪い以外は欠点なしのエリートとして描かれている人間、しかも医師が、バンパネラたちに「お前たちは実在しない」って言い放つの、パワーがありすぎてニコニコしてしまった。いまわに「お前たちはどうして存在しているんだ?」って、医師〜〜!すごい、そこが気になっちゃうんだね、すごい。医師……。吸血鬼っていうモティーフ自体、そういうリアルな生物的なところからあんまり離れずにファンタジーが出来るところがすごいと思う。クリフォードだけがシーラが鏡に映ってないことや脈がないことにいち早く気がつくのも面白かった。生物っていうものに人一倍の関心がある彼に、理解不能の生物バンパネラが対峙する、アツい、アツすぎる。

 

ド頭から気になったのは、「愛」と「永遠」の二点セット。自分たちが何者なのか(これはクリフォードにのちにえぐられる「存在」っていう点か)不安を訴えるメリーベルに対して、ハンナは「みんなお前を愛している」という言葉で納得させる。シーラは「愛がなければ生きてはいけない」ということと「永遠に男爵と添い遂げる覚悟がある」ことを繰り返し歌う。「愛」とか「永遠」とか、宝塚の人たちが言ってると「そうだね」ぐらい当然に納得してしまいそうになるんだけど、ちゃんと違和感があったのが面白かった。

愛があればそれでいいのか?長く生きることは本当に幸せか?みたいな、素通りしそうな綺麗事に、ちゃんと疑問を持ってくれるのって、私みたいな捻くれた日陰者にはかなり嬉しい。

マジで「愛が全て」に逃げちゃうことって結構破滅的だよなと思うし、その言葉の呪縛によってメリーベルってどんどん不幸になっていったよな……でも彼女はアランが一族に入ることを止めてあげたり、永遠の恐ろしさを誰よりも深く理解していたし、兄が自分のために吸血鬼になったことにも負い目を感じていたんだろうな、それも愛されてる子だから出来ることなんだけど、彼女は生きれば生きるほどずっと寂しさに苛まれ続けるんだろう。なにもかも一言では語りつくせない悲劇だ……。

「吸血鬼」のモティーフ、突飛な設定と思いきや多分人間存在を問いただしてくれるものすごい力があると思う。

 

あと、「愛」と切っても切れない概念として登場するのが、タイトルにもなっている「一族」という言葉。「一族だからなんだよ!?は!?」と思いたくなる暴力的な使い方がされていて良かった……実際世界では「家族なんだから」が平気で振りかざされているよね。あー分かるなーと思いながら見ていた。でも、結局吸血鬼の集団がしがらみの重さに負けて「仕方ねえ、協力してやるか」ってチームとして完成したり、結局やっぱダメで分裂したりするのすっげえ好き("インタビュー"がその点についてマジで死ぬほどグダグダだったので"ポー"落ち着いててすごいなとすら思った)。

「愛」として語られているほとんどが「寂しさ」な気がした。寂しいから仲間を増やす、長い寿命を慰めるために同じ呪いを共に過ごしたい人にかけ続ける。寂しいとか愛とかそういう気持ちそのものが呪いなんだろうな。

 

なんでやたらと吸血鬼の作品に惹かれるのかなってことについて深めに考えてみる。さっきクリフォードについて「生殖とヘテロセクシュアルの権化」って言ったけど、その彼(生物学的に非合理なように思われるものを否定したい人)に「お前たちは実在しない」って目の前で言い放たれるって、多分吸血鬼は「生殖しない人たち」のことなのかなーって感じがする。ゲイとかその他諸々。ライフスタイルも世間一般と合わない、正体を隠さないと怖がられるから、土地を転々としないといけない。最後にエドガーとアランが二人で生きていくことを選ぶけど、二人は別に恋愛関係ではないし、そういう、大多数や凝り固まったステレオタイプからしたら理解不能、恐怖、の、対象。私は吸血鬼に超共感する。「お前たちはどうして存在しているんだ?」って、聞かれてもこっちが聞きてえし、「昔からいた」そう、ずっといた、昔からいるよ〜、今急に発生してね〜よ、みたいなね。理解不能とどう折り合いをつけていくのか、そういう普遍的なものを、吸血鬼モティーフには感じる。

 

愛と永遠の若さ、家族、の醜さ。あんなに醜いものをあんなに美しい人たちがやってくれる皮肉が最高だった。宝塚も最も美しい"あのとき"を閉じ込めた舞台上の姿をスターが代替わりしていくところだし、生殖や男女を除外した世界だから、彼女たちがこの作品を演じることってとても意味があると思った。

見てよかったなあ、これからも吸血鬼たちを愛していきたいと思った。

3月が恨めしい

新潟県南魚沼市、舞子でスキーして帰りがけに劇作コースの追いコン。雪をあんなに見てもやっぱり春だなあって意識は抜けないもんなのね。

後輩に「卒業おめでとうございます」なんて言われるのつらくて聞かないようにしていた。この卒業は今までのどの卒業よりもかなりしんどい、なんでだろうなあ。

全部終わっていくのが、全部はっきり変わっていくのが、(とか、自分が変えようとするのが)今までで一番分かってしまう、明確に。

高校生ぐらいまで、大人みたいに全てのことを明確に理解して感情や感動に変えようとしていたけど、22歳にしてもうそれが必要なくなってきた、むしろ感じてしまうものを無視しようと必死! 別れがつらいってほどじゃない、そんな具体的な感情じゃない、でも、悲しいとか、仲間にありがとうとか、楽しかったねとか、これからもよろしくねとか、そんなところまで辿りつけるのに数ヶ月要りそう。でも3月は1ヶ月の長さで去ってしまう。あー。3月、恨めしい3月。