読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自分を巡るカルチャーと身体 第四回[千晶→正しい倫理子2]

自分を巡るカルチャーと身体 第一回[正しい倫理子→千晶1] - SEPPUKU Web

自分を巡るカルチャーと身体 第二回[千晶→正しい倫理子1] - 未定

自分を巡るカルチャーと身体 第三回[正しい倫理子→千晶2] - SEPPUKU Web

 

ご無沙汰してます。

学校での上演のために、共作で脚本を書いていたのですが、これが想像を絶する大変な作業(深夜までマックやらLINEのグループ通話で打ち合わせして、終わったらそこから朝まで書くみたいな)で、全然返事ができませんでした。でも、一応その執筆が終わったので、今度は個人の課題に取り掛かっているところです。休む暇がないですが、書けるというのは嬉しいことですね。学生最高!

 

千晶から正しい倫理子ちゃんへ

 

 何を隠そう私もBLが好きなので、BLの話で返そうと思ったのだが、どうしても身体の話に繋がらなかったので書き直している。気付いたらホモソーシャルについて熱く語っていたので別で公開しようかな。

 前回はエロの話をした。それに対して倫理子ちゃんが広く嗜好という話題で返してくれた、ので、今度はさらに自分自身の身体に迫っていこうかと思う。ジェンダーとセクシュアル、またそれ以前の単純な造形という視点でだ。

 自分自身の身体という話題は、私の中で非常にホットだ。私の身体はいわば未開の地。今やっと船が岸辺に着き、まさに開拓を始めようとしているところだ。これまでの人生、私は身体を封印してきた。しかし、封印するというのは、ある意味で身体に対する強い意識があった。自ら開いてしまいそうになるパンドラの箱を、全力で押さえつけようとする強い力が働いていた。私にとって、自分自身の身体はタブーだった。

 今回は、そんなタブーを自ら破ろうとした話をしようと思う。

 

 私自身の複雑怪奇な″性別″について、一言に説明するのは不可能だが、言葉を尽くしてそれに近い何かを表すことは出来る。これもつい最近分かったことなのだが、どうやら私は何種類もの″性別の行動様式″がかわるがわる表出してくるジェンダーらしい。ある場面では女の行動様式を取り、ある場面では男の行動様式を取る。またある相手に対しては、男(ないし女)の行動様式を取る、という場合もある(このときの相手の性別と、表出する私の性別は一切関係がなく、ランダムである)。また全く不規則に気分で表出する性別が変化する場合もある。これらの全ては私の意思とは関係なく起こってくるので、操作できず、また、ほとんどの場合無自覚のなかで変化している。たまに変化が実感されて、「あれ、おかしいな」とか「気持ち悪いな」と思うときがあったが、「人間誰しもこの程度の変化はあるだろう」ともみ消してきた。しかし冷静に考えてみると、みんながみんなこんな風に性別が揺らいでいるはずもなかった。

 他人から見て、この性別の変化はそんなに気になるほどの変化ではないらしい。指摘を受けたことは、記憶する限りでは一度もない。幼少期は性別の揺らぎが顕著だったので、写真を見るだけでそのときの性別が分かるほどだが。(その写真を見ていて、今は偏見や常識にまみれているけれど、本来はそういうジェンダーだった、という認識に辿りついた)

 ただ、私が自認する性別は「男女のどちらでもない、あるいは中性」である。揺らいでいるのは行動様式という表出だけだと思う。

 

 さらに私の性別が複雑怪奇なのは、性自認とはまったく別で、トランスセクシュアル的な「自分の身体に対する強烈な違和感」があるところだ。

 私はしょっちゅう、「性別とは美意識のことである」という言説を唱えている。私の行動が男になったり女になったりするのが、そうやって変化したほうが美しいと思うからであるか? と聞かれるとあまりにコントロール不能なので「ううん……それはどうなんだろう」と言うしかない。分からない。

 

 そして、身体の造形に対する違和感も、大元は美意識なのではないかと思っている。

 私は美意識という言葉を、「好き好み、美しいと感じる他者の造形」のことではなく、「自分自身がこうあるのが美しいと感じる自分の造形」に限って使う、ということを一応念頭に置いて聞いてほしい。

 小さい頃、クラスでも特別背が低く、周りの子に比べて体格も良くなかったが、大人になれば長身になると信じ込んでいたし、きっと今にすらりと凹凸のない身体になると信じ込んでいた。女性的な丸みやふくらみ、小ささは私にとっては想定外だった。

 でも、私の身体は女である。今でこそ、身長は日本人女性の平均、体重は平均よりかなり軽く、身体の凹凸も少ないほうであると思う。が、それでも私の身体には現実が重くのしかかっていた。私は自分で自分にふさわしい身体、つまり美意識に叶う身体にはなれないのだ、どんなに頑張っても。

 

 不可能を悟ったときの人間は面白い、と、私は自嘲的に思う。多くの人に分かるように説明しようとすると、多分、「人は死を逃れられない」と悟るのと似たような感じだと思う。そのことを常に意識していたら生きていけないから、「思い出すのはたまに」にする。つまり、自分自身の身体をパンドラの箱に押し込んで、蓋をガムテープでぐるぐるに止めてしまったのだ。思春期に、生理が来て、身体が変わって、身長が160に辿りつかずに止まり、おそらくそれ以上耐えられなくなって、無意識のうちにそうしたらしい。

 

 ついこないだ、自分の身体の小ささに驚いた。久しぶりに箱を開けてしまったのだ。自分の身体だから、相対的に客観的に評価することはできないが、「これが自分の身体であると意識する」とどうしようもないやるせなさが迫ってくる。自分で思っているより一回りも二回りも絶対的に身体が小さい。あるはずのないふくらみが存在している。(しかし、男性器がないことには違和感がないので、私は性同一性障害にはぎりぎり分類されないのだろうな、と思っている)

 私はまたそっと蓋をする。乳房や太ももの脂肪を取り除くにはどうしたらいいんだ、どういう手術が、どれだけお金が、という思考だけが箱の上に転がって残る。華奢な骨格はこうして生まれてきた以上、どうすることもできない。

 

 誤解のないように言っておくが、私は醜形恐怖症とかの類ではないように思う。私は私の身体を美しいと思う。でも、その美しさは私の「美意識」にはそぐわないのだ。「美意識」にはセクシュアルが複雑に絡みついている。私の性別は男女のどちらでもない何かである。私は私の身体が何を夢見てこんなに苦しんでいるのか、正直よく分からない。どれだけ振り払おうとしても「美意識」は消えない。これはこじつけだけど、「美意識」が消えないから、どうにか現実の欠陥を補完しようとしたり、諦めたりして、私の行動様式はふらふらと男女の両方を表現しているんじゃなかろうか、そんな気がしないでもない。

 

 倫理子ちゃんが「自分の身体のことやセクシュアリティーは意識したり言葉にしたりしない、それで苦労していないから」と書いていたので、あえて対極を行く私の「身体の悲劇」について書いてみた。意識したり言葉にしたりしなくても困らない人には、是非とも身体と仲良く付き合っていってほしい、という思いがある。倫理子ちゃんも身体との愛憎を繰り返している印象だけれど。

 私は果たして死ぬまでに身体と和解できるのだろうか? 老いて醜くなれば、美意識なんて朽ち果てるのだろうか? でも、それはちょっと悲しい、とか思ってしまう、これも私と身体の愛憎なのである。

 

 今日はこのへんで。夏休みにでもまたご飯行こうね!

 

千晶より