骨足りないし心臓多い

考えてること書く

劇団鹿殺し本公演「傷だらけのカバディ」感想文

ネタバレ注意です!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

劇団鹿殺し本公演「傷だらけのカバディ」観劇いたしましたので、取り急ぎ簡略な感想文を書きました。

出演者の内藤ぶりちゃんからご紹介いただいて、恥ずかしながら今回初めての鹿殺し観劇だったのですが、これは次回の公演もまた観たいと心から思いました。面白かったです。

カバディ、私は正直漫画「銀魂」で画面の端でたまに山崎がやってるやつ、という知識しかなかったので、今回でカバディのルールが知れて大変興味深く感じました。

カバディは行って帰ってくるスポーツなんですね。自分の陣地と相手の陣地に明確な境界線があり、その線を自分の体で明確に越えることによって得点が入る。

アフタートークで「カバディは常に帰り道のことを考えるネガティブなスポーツ」という話がありましたが、これまでの歴史の中に存在している物語のほとんどが「帰りたい」物語であると私は考えています。帰りたいと思うことは、そんなに後ろ向きなことではないように思います。

これは大学時代受けていた講義の受け売りですが、物語というのは必ず内と外があって、たとえば「桃太郎」なら、おじいさんとおばあさんに育ててもらった家《内》を出て鬼ヶ島《外》に行き、鬼を倒して金銀財宝を手に家《内》に帰ってくるという物語、逆に「かぐや姫」なら、月《外》からやってきて竹取翁によって拾われ《内》、そしてまた月《外》に去っていく物語です。

そしてこの講義で教授は、この物語の構造から、「帰るべき内側を失ったのが近代以降の文学」っていうようなことを言っていたと思います。私も地方出身で上京した両親のもとに生まれて東京を転々とする生活で、故郷はないですし、私の人生に、どこかへ帰っていく解決チックなものは望めないなというのは薄々感じながら生きているので、この内容には概ね同意です。

「傷だらけのカバディ」はもう帰れない大人たちが最後にしっかり帰ってきたっていう、現代人にとって夢のような作品になっていました。

東京オリンピックの開催された2020年と、その10年後である2030年の二つの時空を行き来するスタイルの作品になっていて、かつて一緒にカバディでオリンピック金メダルを目指し切磋琢磨しあった8人の仲間たちが、10年間のあいだに全員すっかり帰るところを無くしてしまっている。そのうえ、10年前、練習のモチベーションのためにマネージャーのノートに綴った『夢』を、誰1人叶えられずにいた。

……ように見えて、実はみんな10年前の時点でそれを無意識のうちに手にしていたことに気付いていないだけだったんじゃないか、というふうに見えました。

最後にライオネルのメールが、個人の皆の夢を叶える方法だけは示唆してくれていたけど、なぜ記憶を失う前のライオネルがそのメールを送ったか、なぜ自殺したタワシが弟に送った(?)写真の裏にあんなメッセージを残したのか、は、2人がもう既にそのことに気付いていたからではないか。10年後、復讐するという名目で、賠償金を得るために彼らは再会を果たしますが、そこにあったのは復讐や金銭的解決ではなく、帰るべき場所がお互いの存在、絆であったことへの気づき、でした。

さっきも内と外の物語の話をしましたが、私がこれを観て一番思い出したのは「オズの魔法使い」です。

あれはうちに帰りたい物語で、ドロシーはうちがあるのでうちに帰れるんですが、「傷だらけのカバディ」に登場する大人たちはもう失敗が多すぎて、あの頃は持っていた帰る家、夢とか、知識とか正直さとか、名声とか、期待とか、ひいては命すら、失ってしまっている。でも大抵の人は帰れるところがあるのなんて子供の頃だけで、大人になるとこんな風にして自分が帰着しなきゃいけないところなんか、見失ってしまっている場合がほとんどだし、究極的にはそれは自分で作り出さなきゃいけないものだったりもすると思うんですよね。

でも、人生がめちゃくちゃになっているように見える鹿神セブンのメンバーたちは、10年前にそれを絆という形でもう作り置いてきているんです。彼らが忘れてしまっているだけで。

皮肉にも死んでしまったタワシと記憶を亡くしてしまったライオネルだけは、そのことを寸前まで覚えていて悔やんでいるという構造がまた憎いですね。今日を生きるのに必死な人間は、そんなことにかまっちゃいられなくなるから。

ライオンは旅の中で勇気を、ブリキの木こりは旅の中で感情を、カカシは旅の中で知性を、気付かないうちに、得ていました。通じるものを感じるなあと思います。キャラクターにもライオンとロボットがいますが偶然ですかね?

急に話が逸れますが、この時代になってもまだ前時代的なホモフォビックな脚本も多く見受けられる中、ロボコップの描写に関しては非常に愛があり感激しました。ゲイであることと、トランスジェンダーであることと、性別越境する意思の有無の3つの観点を混同しているように見える描写も正直ありましたが、それ以外に関してはヒヤヒヤせずに観られたのでとても良かったです。アイラの兄の自由のために父の面倒を見ようと決意した姿にも切なくてグッときました、インドに行くラストもおかげで効いていました。

最後えらそうなことを言いましたが、本当に最初から最後まで楽しませていただきました。もう一回行きたかったです、お金さえあれば……。また次の公演も楽しみにしています。

 

2019.11.27みやかわゆき

東海オンエア全員いるときなぜか1人少なく感じる現象についての話

次に出すnoteの記事の助走として、短い話を書いてみる。

YouTuberの話。殊、私が最近もっぱら見続けている6人組YouTuber東海オンエアに関して。(先に断っておくが、彼らの動画の内容には一切触れず、その撮影の形式だけを追う記事なので、面白くもおかしくもなんともない、ただちょっと不思議な話をするだけだ)

最近ずっと気になっていて、しかも私だけではなく他の視聴者も同じ現象を感じているらしいのだが、それが、こんな現象だ。

彼らが画面内に全員揃って映っていても、一人足りないような気がする。

昔の怪談でよくあるのが、遊んでいる子供は10人のはずなのに、何回数えても1人多い、顔は全部知っている顔なのに、何度数えても11人いる、という座敷童の話。

東海オンエアではその逆が起こる。

なぜなのか考えてみたとき、私はまずこう推察した。

彼らの撮影形態として、企画の内容により出演人数の調整をしている、というのがある。3人がちょうど良ければ3人、6人全員必要なら全員で、というふうにだ。

かつ、グループYouTuberには珍しくない手法だが、「画面外」という登場の仕方もよくする。これは、動画内で執り行われるゲームのゲームマスター、あるいはクイズの出題者、あるいはコンテストへの出品を吟味する審査員などの役割を担ったメンバーが、カメラの後ろに配置され、動画に声だけで参加するという手法のことである。

このような理由によって、東海オンエアはその場に全員がいながら、全員の姿は確認できない、というケースが多く見られるため、全員が画面に映っていても誰か一人が欠けているように感じてしまうのではないか? というのが私の以前までの見解だった。

 

が、先日ふと「YouTuberを民俗学と結びつけて論じてみたい」という謎の衝動にかられた私は、連休で暇していたのもあって図書館に行って色々本をかき集めて読んでいた。

そこで借りてきたのが、「21世紀の民俗学」(著・畑中章宏)というなんともタイトルからして興味のそそられる本。

私は今のところその本の最初の一章しか読んでいないのだが、そこに偶然この“逆”座敷童現象を説明できそうなことが書いてあったので、紹介したい。

章タイトルがまず「ザシキワラシと自撮り棒」だ。途中、私が気になった「幻のもうひとり」という一節から次に引用する。

 

《記念写真のような集合で撮る、撮られる写真にかんして、文芸評論家の三浦雅士が書いた「幻のもうひとり」(一九八一年)は、わたしたちを思考実験に誘う。

 この文章で三浦は、寺山修司が「ザシキワラシ」という妖怪から、お互いに人数を数え合う子どもたちのイメージを引き出していることを指摘し、人間の数を数えること、自分自身を数えることの不気味さについて論述している。》

 

もう既に結構答えに近づいている感じもするが、次にここも読んでほしい。

 

《六人の仲間が自分たちの写真を撮ろうとすると、だれか一人が撮影者にならなければならず、一度に五人しか撮ることができず、六人全員一緒に一枚の写真の被写体にはなりえない。それを実現するためには、通りすがりの第三者に撮影を依頼するか、自動シャッターを用いるしかない。「自分たちの数をかぞえるときに必要とされた『幻のもうひとり』がここでは具体的なかたちになって姿を現わさざるをえない。」

 三浦はこうした「幻のもうひとり」こそが、写真家にほかならないという。しかし現在に至っては、自撮り棒が、「幻のもうひとり」を体現しているのだ。》

 

東海オンエアが撮影しているのは、ここで論じられている静止画の写真や、素人の記念撮影ではないので、ほとんどの屋内での撮影において、三脚に立てられたビデオカメラで撮影が行われる。屋外での撮影では、人の手を借りることもあるが、その場合も彼らに雇われた付き人のような後輩だったり、事務所のマネージャーだったりがカメラマンを務めるので、6人全員が画面に映ることはもちろん理論的には何ら不思議がないはずだ。そのカメラのテクノロジーやら撮影の仕組みを、私たちが理解していないはずはない。なのに、どうしてかカメラがあるとその裏側に人がいるような奇妙な錯覚にとらわれる。

ただよく思い返してみると、彼らが日常生活を切り取った姿を見せてくれるサブチャンネルでは、多くの場合メンバーの一人が手にビデオカメラを持った状態で動画が始まる。展開によって途中でカメラマンを交代することもあるが、基本的にはサブチャンネルで六人全員が画角に収まることは少ない。メンバーの誰かが、彼の友達をただ撮影している。だから、私たちが撮影者の顔やキャラクターをもよく理解している、という、テレビ番組では起こり得ない、なんとも親しみ深く微笑ましい状況がYouTubeには実現しうるのだ。

この在り方は私たちが根源的に認識している、写真や映像を撮るときのよくある状況と一致しているじゃないか。私が、カメラを持った私を入れて、友達の人数を数えるときの、あの状況に。

だからもしかすると三脚の定点無人カメラで撮られたメイン動画にも、私たちはこの構造を錯覚してしまっているのかもしれない。

私たちはなんとなく、カメラがあると、その後ろ側にいる人間の存在を数えてしまう。そのせいで、全員がカメラの前にいる状況に、少しだけ違和感を覚える、のかも。

 

ただ、付け足しておくとすれば、この現象が起こるのにはいくつかの条件がある。

一つ目に、思うに6人という人数がパッと見たときに認識しづらい気がする。5人以下なら1人少ないときにすぐ認識できるし、全員揃っているときに1人少なく感じることも、経験上少ない。

5人組は戦隊モノやアイドルによく見られる編成で、並んだときにセンターが1人、両脇に2人ずつ、となるので見た目も綺麗だが、6人組はセンターを2人で割らなきゃいけなくなるので、視覚的に若干ズレたような感じがする。

そのせいか、全員がテーブルのまわりにぐるりと横並びになって撮影していた旧・てつや邸の撮影部屋のときは、全員揃っていることが認識しづらかったのに対し、ソファに3人、地べたに3人の2列で動画を撮るようになった現在の撮影部屋では、センターが発生しているおかげでその頃に比べると全員いるのが認識しやすい、ような気もする。それでももちろんなんだか1人足りない感はあるのだが。

二つ目に、前述したように東海オンエアが「全員いたりいなかったり、後ろにいたりいなかったりする」という撮影形態をとっているということが大きい。しかも全員揃う頻度がまた絶妙に錯覚を呼ぶ。

東海オンエアより人数が多いフィッシャーズを例にとると、フィッシャーズは7人全員揃うことが滅多にない。その頻度が低いせいか、全員集合の動画をたまに見ると「なんか多いな」という感覚にむしろなる。

参考になりそうなクリエイターがいないので今のところ不明だが、逆に絶対に毎回全員がカメラに映っている6人以上のグループYouTuberがいた場合、この“逆”座敷童現象は起こらないのではなかろうか。もしそういうグループを知っていたら教えてほしい。

 

そんなところで、私たちは東海オンエアに、幻の7人目の存在を勝手に作り上げてしまっているのではないかと思う。別に先述の私の理論立てだけでも納得できないこともないが、私はこの本に書いてあった「幻のもうひとり」の概念にとても暖かさを感じた。

YouTuberの世界にはもはや、被写体とカメラマン、タレントとプロデューサー、表方と裏方なんていう役割分担はなく、カメラの画角に登場する一人一人が、同時にその裏側から彼ら自身を映し出し、編集し、演出するという役割を担っている。

それに彼らは友達同士で、じゃれあうようにお互いにカメラを向け合い、そのレンズの裏側に回って友達を見守る存在にいつだってなれる。だから多分、カメラの後ろ側にも、常に彼らはいる。一人一人が、常に幻のもうひとりなのだ。

6人という中途半端な人数がそうさせているんだろと言われたらそこまでだが、私は彼らの人間関係ごと愛している視聴者たちが、無意識のうちに、友達を撮影するもう1人の彼らをカメラの後ろに数えてしまっている説を推したい! と思った。

 

2019.10.12(台風の日の早朝に) みやかわゆき

 

 

参考:「21世紀の民俗学」(著・畑中章宏)

キュ

仕事が早番の日は退勤したあと英会話を習いに行くのだが、腹が減っていると集中できないので近くのプロントで夕飯を食べてから行く。今そのプロントで記事を書いている。

なんでプロントなのかというと、2階全域でタバコが吸えるので広々していて好きなのが理由。で、タバコ吸う人は知っていると思うけど、プロントとかベローチェとかみたいな安くておしゃれなカフェの灰皿って、ツルツルしていて表面全てに光沢がある。タバコの火を消すとき強くこすりすぎてしまうと、それが「キュ」という感触を引き起こしてしまうときがある。私はあれが苦手。生来、手足の爪先の感覚が無駄に鋭敏なのもあるけど、光沢のある側面を引っ掻くときのあの「キュ」というのは全般かなり不快だ。音も嫌。

でも、その不快な感覚で思い出すことが一つある。小さい頃、家の風呂場に私の転倒防止に、キティちゃんの滑り止めマットが敷いてあった。あれを足で少しこすってしまうと、甲高い「キュ」の音となんとも言えない感覚が爪先から伝わってくる。が、当時私はなぜかその音も感覚も全然平気だった。「キュ」が嫌いだったのは私の父だった。

私は事故的に鳴ってしまった「キュ」に対する父親の反応を初めて見たときから、父親が何かを異様に嫌がっている様が面白くて味をしめてしまい、一緒にお風呂に入ると何度もあの音をわざと出してはケタケタ笑っていた。今、想像すると「ふざけんなクソガキ」と思っていたに違いない父親の心中を察する。

私が生まれたときの父親の年齢すらまだ遠い未来(10年後)だけど、少しずつ、大人に近づくと親の感覚が分かってくる。それが誇らしくて、私はタバコの火を消すとき誤って「キュ」とやってしまうと、不快と同時にすごく大人になった気がして嬉しいのだ。

 

あみんの「待つわ」の出だしがすげえ好き

あみんの「待つわ」の、出だしの

「かわいいふりしてあの子 わりとやるもんだねと

言われ続けたあの頃 生きるのがつらかった」

っていう歌詞がすごい好きで、この曲全然歌えないのにこの歌詞だけがたまに頭を離れなくなる。

「かわいいふりしてあの子わりとやるもんだね」なんて周りの女達から陰口を叩かれ、誰にも理解されず本当の自分を誰にも曝け出すことが出来ず、こうやって強く孤独に生きていくしかないんだと覚悟を決めようとしていたあのとき、「この人になら自分の弱さも普通の若い女であることも目の前で認めて、すべてを預けていい」と思えるような相手に出会ってしまったっていう、でもその人は振り向いてくれなくてずっと待ち続けてる、多分この曲はそういう曲だと思う。

なんでもそつなくこなせちゃって、そのわりガツガツしたそぶりを見せることもなく涼しい顔してられちゃうような、そういう嫌われる奴の心情っていまどきあんまり誰も書いてくれない。生きてるだけで嫉妬される人、絶対一定数いるんだけど。すごくしんどいはずなんだけど、その弱音自体が周りには嫌味にしか聞こえないから、結局また強さを装う鎧に閉じこもる他なくなる。で、またその鎧がその人の孤高の美しさに磨きをかけて、冷たい美貌にみんなまた嫉妬して好き勝手な負け惜しみを言いだすんだ。そんな人のことを特別扱いしない誰かが現れたとき、一瞬で心を溶かされてしまう、そういう不本意で苦しい恋の曲。もっと増えないかな! にしてもヒット曲なのに題材がマニアックだなあ……。

命のバトンて

久しぶりの投稿なのにつらい内容になってしまってつらい。仕事の昼休憩なので短く済ませます。

昨日の夜、私たち家族が大好きな「家ついていっていいですか」の録画を3人で見ていた。奥様を若くで亡くされ、二人の娘をタフに必死に厳しく強がりながら泣きながら懸命に育てているお父さんの姿に胸打たれる内容で、非常に良い特集だったんだけど、最後にそのお父さんが「娘たちが独り立ちして家族を持って、子供を産むのを見届けるまでが自分の役目だと思う。彼女が産んでくれてせっかく生まれてきたんだから、命のバトンを繋いでほしい」

というような主旨のことを言ったのを聞いて、私はそれまで感動していたのに一瞬で寒気がしてしまった。なんというか、「娘がレズビアンなどの異性と恋愛や性行為をしないセクシュアリティ、あるいは妊娠できない身体だったらどうするんだろう」まで一瞬で頭が回ったわけではなく、「私命のバトン繋げないんだな。てか、命のバトンて何(笑)」っていうほうの冷笑が先に出てしまって、気持ち悪くなった。

差別がどうのこうのという話はする気はないししたくない。でももう人類も文明長いんだから、そろそろ子孫繁栄がえらい尊いとかいう獣臭いダセェ価値観やめろよ、と思うだけなのだ。そりゃあ産める人たち、産みたい人たちは勝手に産んでほしいと思うし(なのでお金と仕事の問題でそれすらもかなわないヤバイ社会は本当にどうにかしたほうがいい)、それが彼らの望みだとしたら素晴らしいことではあるんだけど、仮に誰もそれを望まなくなるときがきたとしたら、そのときに訪れる人類滅亡は全然、バッドエンドじゃなくないですか?

勇気をもって宗教の話題に触れるよ

今回は久しぶりにかなり真面目に。いつぶりかに、信仰とセクシュアルの話をしてみる。

 

私は正直言って神を信じることがどういうことなのか、「神」の範囲がどこまで及ぶのか(聖典の内容のどのあたりまでは信仰の対象とされるのか)、というか、信仰という言葉が明確にはどうすることを指しているのか、全然分からない。

私は信じるという行為に対して幼い頃から非常に苦手意識を持っており、信じることが出来ない自分が本当にコンプレックスだった。大人になってみると、なんでも鵜呑みにしないということは単なる強みにもなってきたが、サンタすら信じられないうえに信じているふりまでこなした子供時代は、かなり、無理があった。世間が我々子供に求めている純真さが、私にはちょっとキツかった。そして、信じられないとつまらないことが多々あった。それを俯瞰している時点で楽しむ資格がないんだけど。

前にも書いたかもしれないが、私は幼稚園から高校までゴリッゴリのカトリック育ちで、遠い昔に遠い国にいたのかもしれないイエス・キリストという男を、そこそこ信ぴょう性が感じられる存在としては認識していた。少なくともサンタに比べると。

ただ、本当に信じるのが苦手だった私は、ミサと讃美歌に囲まれた14年にも及ぶ長い生活の結構序盤、確か小学校3年生ぐらいで、やっぱり無理がある、と感じ始めた。そして思春期を迎える頃にはこの感情は、「やっぱり信じられないな」なんていう曖昧なものから、「私は信仰を疑ってこそ私だ」という確固たる自己同一性に姿を変え、やがて私の精神の支柱には、信じられない神の倫理道徳の代わりに、退廃的で欲深い芸術が腰を据えることになった。私がこうしてものを書いているのは、カトリックへの否定に端を発しているといっても間違いではない。

この話は長くなるのでまた別ですることにする。今重要なのは、芸術に魂を売り渡すと決意を固めた少しあと、私が「カトリックは同性愛を認めていない」という事実に気付いてしまったことだ。

私が高校生だった時代(2011~2014)というのは、つい最近のことだと言われるかもしれないが、日本にもやっとこさジェンダーセクシュアリティにおける人権確立の黎明期が訪れた(かな?)昨今と比べれば酷い状況だった。そんななかで、自分が同性愛者であるという意識と向き合いたてホヤホヤの私が、ずっと、そのときも属していたカトリックの環境に、「自分は歓迎されていない」と気付いてしまった。そしてそれは事実だった。事実、私の高校時代、私たちは社会から完全に無視されていた。

それがカトリックの環境に限った話ではなかったのは言うまでもないが、ちょうど高校3年生のときに海外ドラマ「glee」を見ていたのが私にとって大きい。気高いゲイの才能ある歌い手であるキャラクター・カートが「僕は神を信じない。僕らを認めていないから」と作中で語れば、現実世界に共感してくれる人もありのままの自分を知る人もいなかった当時の私からすればそれは真実なのだ。そして同時に、「この宗教を信じていなくて良かった」と思った。板挟みになったり、そういう引き裂かれるような状況は嫌いだ。板挟みになったとき、人がどうなるかは想像に容易いだろう。地獄のような自己嫌悪だ。倫理と自分の本来の欲望がすれ違ってしまうという、生き地獄。

 

それから時が流れて、ちょうど私が成人した頃、フロリダで銃乱射事件があった。まさに私が危惧した生き地獄を生きる人による犯行だった。私はこの事件のことをずっと考え続けてきた。卒業戯曲でも取り扱った。あの事件は遠いところで起こったことではない、私が殺されていたかもしれない事件だ。忘れてはならない。今でも考える。たくさんの人が亡くなったこと、ゲイコミュニティがターゲットにされたこと、あの事件に、セクシュアルと、宗教が絡んでいたことを。

 

それからこのあいだ、二つの興味深いニュースがあった。

ひとつは、同性婚をする男性2人がケーキ屋にウェディングケーキを発注したところ、キリスト教徒であることを理由にその注文を断られたという事件。

www.huffingtonpost.jp

もうひとつは、ローマ法王が同性愛者を認めた、というニュースだ。

www.cnn.co.jp

 

この相対する二つの出来事が、時を越えて私を高校時代のあの意識に引き戻し、同時に生まれてきてから経験(厳密には経験していないが)したなかで最も凄惨な事件、フロリダ銃乱射事件に至るまでを一本の線として繋いだ。

私はカトリックの学校の教育のなかで同性愛が無視されていることを感じていた。積極的に否定されることはなかったが、触れられなかった。無知ながらも私は、無言の中からうっすらと、「人権のことがあるから否定は出来ないけど、宗教の教えとして好ましいとは語られていないから、話題に出せないんだろうな」と感じていた。まさにケーキ屋の一件はこの「触れたくない部分」に触れられてしまったんだと思う。

 

それじゃあ、カトリックは具体的にどうやって同性愛を否定していたのか?

「ソドムとゴモラ」に関する聖書の箇所をネットで調べて読んでみた。こういうとき聖書があると便利なんですよ~。

すると、「みだらな行いにふけり」「不自然な肉の欲の満足を追い求めたので」としか書いていない。

本当に神は同性愛を否定したかったのか? これだと分からない。もしかすると私の知らない隠語みたいなやつなのかもしれない。と思って、先にソドミー法のほうを調べてみたら、

 

ソドミー法(ソドミーほう、英語: Sodomy Law、発音: [ˈsɒdəmi lɔ'ː])は特定の性行為を性犯罪とする法律である。ソドミーの言葉が明確にどの性行動を示すかは、殆ど法のなかで詳細に説明されないが、裁判などでは主として「自然に反する」と見なされる性行動を指すとされる。「自然に反する性行動」は婉曲的な表現であり[1]、ここでの性行動は一般的に口内性交や肛門性交、獣姦が含まれる。この法が異性のカップルに適用される事例は稀である。」

 

と、出た。ここまでくると完全に、のちの人間たちのさじ加減で都合よく解釈されている筋でほぼほぼ間違いないんじゃないか。そしてこの法だとレズビアンがギリギリ脱法と取れなくもない。あまりにも曖昧すぎる。そもそも、「自然」がなんなのかという定義が分からない。穴が多すぎる。

調べてみて、完全に「キリストごめん、キリストのせいにしてごめんねホント」の気持ちでいっぱいになってきた。でも、だからといって宗教を許せるかと言ったらそんなことはない。宗教にはちょくちょく政治が絡んでいることぐらい、私がいくら馬鹿と言えども知っている。これまで、嫌というほど人間の歴史や争いが干渉してきたのは当たり前だ、それを含めて宗教だろう。そのあたりを度外視してやる気は毛頭ない。なぜなら、全て、言葉でしかないからだ。聖典も、説法も。

 

冒頭の話に戻る。信仰している人たちが信仰しているのは、一体なんなのか? 聖典は言葉で、聖人も永遠の命は生きられない。時代が、歴史が、政治が言葉の意味を変えていく。解釈は何通りでもある。「不自然」という言葉が何を指すと捉えるかは、一人一人違う。私なら、男と性行為をして子供を作るほうが不自然だ、マブい女と最高のセックスをするほうが自然の摂理のなかにあると感じる。ならば、一体信仰とはなんなのか、一神教なら皆が一つの方向を向いているのではないのか、そもそもそんなの無理じゃないか。ケーキ屋は神のために同性愛者を受け入れなかったが、カートや私は恋のために神を捨てた。「神を愛してる、でも僕はゲイ」そんな人もたくさんいるだろう、「神の教えに従って、たとえ自分と違うセクシュアリティーの人のことも平等に愛するわ」という人も絶対たくさんいる。今年のレインボープライドには、キリスト教の団体が「キリストはアライ」と掲げてブースを出していたらしい。それも解釈の一つだろう。そして、ローマ法王も、彼の解釈を表した。

 

私は疑うのが好きだ。何も信じないけれど、疑った先には夢やロマンがあるということだけは、信じている。何より言葉の意味するところを疑えば、その裏に隠された言外の可能性は、億千と広がっていく。

だから分からないのだ、人々が聖典の何を信じているのか。

でも、解釈が色々出来て、しかも歴史や政治に歪められていくのなら、むしろ希望が持てないか? どこまででも世界を幸せにする可能性を秘めていないか? 同性愛者のことだって救えるようになりはしないか。これは多分、信じるのが不得意な人間の突飛な意見に過ぎないだろうけど。一応そう言ってみたかった。

 

 私ももうカトリックと長い付き合いになる。因縁の相手だと思い続けて早幾年。世界一ドデカい宗教だし、たまにはいいことだって言ってると思う。それに、信者たちが世界に残した功績だって素晴らしい。マザーテレサとか。だからもう、「信じない」とか「信じるってなんなの」とか白々しいことを言うのはいい加減にやめたいんだ。

事情はもっと複雑になっている。レズビアンで、芸術に魂売った私と、カトリック、いや、この世に存在する宗教全部、これからもっと複雑に対峙していかなければいけない。長い戦いになるだろうけど、私は絶対に宗教の存在を無視したくない。お互いがお互いの輪郭を決定づけてきたのだから。そしてこれからも。

 

それから、出来ることなら「信仰する人々」が、選べずただ無作為に運命を割り振られて生まれてくるセクシュアリティというものを、信仰のために歪めてしまうことのない世界になることを望んでいる。宗教が変われば世界が変わる、フロリダで銃を乱射したあの人のような人も出てこなくなるかも。宗教はどこまでフレキシブルになれるのか、この時代の過渡期に生まれたからには、面白いものが見たい。

休戦

私の人生を形作った愛すべき敬うべき巨大な宗教であり宿敵、カトリックとの休戦を考えてもいいかと思った。

https://www.cnn.co.jp/m/world/35119558.html?ref=rss

ローマ法王が同性愛者の男性に対して「神はあなたをそのように作った」と言ったらしい。

個人的な経験として私は幼稚園から高校までコッテコテのカトリック教育を受けてきたが、世代的にもまだちょっと微妙なときに学生時代を過ごしたので、カトリックに対してはホモフォビックな感じを受けなくはない。

カトリックを宿敵と呼ぶ理由には他にもたくさんあるけれど、ローマ法王のこの発言で、その点に関してはもういいことにしようかと思った。

この宗教は世界で一番のマジョリティだし、これって大きなことだよね。また詳しく書きます。