骨足りないし心臓多い

考えてること書く

東海オンエア全員いるときなぜか1人少なく感じる現象についての話

次に出すnoteの記事の助走として、短い話を書いてみる。

YouTuberの話。殊、私が最近もっぱら見続けている6人組YouTuber東海オンエアに関して。(先に断っておくが、彼らの動画の内容には一切触れず、その撮影の形式だけを追う記事なので、面白くもおかしくもなんともない、ただちょっと不思議な話をするだけだ)

最近ずっと気になっていて、しかも私だけではなく他の視聴者も同じ現象を感じているらしいのだが、それが、こんな現象だ。

彼らが画面内に全員揃って映っていても、一人足りないような気がする。

昔の怪談でよくあるのが、遊んでいる子供は10人のはずなのに、何回数えても1人多い、顔は全部知っている顔なのに、何度数えても11人いる、という座敷童の話。

東海オンエアではその逆が起こる。

なぜなのか考えてみたとき、私はまずこう推察した。

彼らの撮影形態として、企画の内容により出演人数の調整をしている、というのがある。3人がちょうど良ければ3人、6人全員必要なら全員で、というふうにだ。

かつ、グループYouTuberには珍しくない手法だが、「画面外」という登場の仕方もよくする。これは、動画内で執り行われるゲームのゲームマスター、あるいはクイズの出題者、あるいはコンテストへの出品を吟味する審査員などの役割を担ったメンバーが、カメラの後ろに配置され、動画に声だけで参加するという手法のことである。

このような理由によって、東海オンエアはその場に全員がいながら、全員の姿は確認できない、というケースが多く見られるため、全員が画面に映っていても誰か一人が欠けているように感じてしまうのではないか? というのが私の以前までの見解だった。

 

が、先日ふと「YouTuberを民俗学と結びつけて論じてみたい」という謎の衝動にかられた私は、連休で暇していたのもあって図書館に行って色々本をかき集めて読んでいた。

そこで借りてきたのが、「21世紀の民俗学」(著・畑中章宏)というなんともタイトルからして興味のそそられる本。

私は今のところその本の最初の一章しか読んでいないのだが、そこに偶然この“逆”座敷童現象を説明できそうなことが書いてあったので、紹介したい。

章タイトルがまず「ザシキワラシと自撮り棒」だ。途中、私が気になった「幻のもうひとり」という一節から次に引用する。

 

《記念写真のような集合で撮る、撮られる写真にかんして、文芸評論家の三浦雅士が書いた「幻のもうひとり」(一九八一年)は、わたしたちを思考実験に誘う。

 この文章で三浦は、寺山修司が「ザシキワラシ」という妖怪から、お互いに人数を数え合う子どもたちのイメージを引き出していることを指摘し、人間の数を数えること、自分自身を数えることの不気味さについて論述している。》

 

もう既に結構答えに近づいている感じもするが、次にここも読んでほしい。

 

《六人の仲間が自分たちの写真を撮ろうとすると、だれか一人が撮影者にならなければならず、一度に五人しか撮ることができず、六人全員一緒に一枚の写真の被写体にはなりえない。それを実現するためには、通りすがりの第三者に撮影を依頼するか、自動シャッターを用いるしかない。「自分たちの数をかぞえるときに必要とされた『幻のもうひとり』がここでは具体的なかたちになって姿を現わさざるをえない。」

 三浦はこうした「幻のもうひとり」こそが、写真家にほかならないという。しかし現在に至っては、自撮り棒が、「幻のもうひとり」を体現しているのだ。》

 

東海オンエアが撮影しているのは、ここで論じられている静止画の写真や、素人の記念撮影ではないので、ほとんどの屋内での撮影において、三脚に立てられたビデオカメラで撮影が行われる。屋外での撮影では、人の手を借りることもあるが、その場合も彼らに雇われた付き人のような後輩だったり、事務所のマネージャーだったりがカメラマンを務めるので、6人全員が画面に映ることはもちろん理論的には何ら不思議がないはずだ。そのカメラのテクノロジーやら撮影の仕組みを、私たちが理解していないはずはない。なのに、どうしてかカメラがあるとその裏側に人がいるような奇妙な錯覚にとらわれる。

ただよく思い返してみると、彼らが日常生活を切り取った姿を見せてくれるサブチャンネルでは、多くの場合メンバーの一人が手にビデオカメラを持った状態で動画が始まる。展開によって途中でカメラマンを交代することもあるが、基本的にはサブチャンネルで六人全員が画角に収まることは少ない。メンバーの誰かが、彼の友達をただ撮影している。だから、私たちが撮影者の顔やキャラクターをもよく理解している、という、テレビ番組では起こり得ない、なんとも親しみ深く微笑ましい状況がYouTubeには実現しうるのだ。

この在り方は私たちが根源的に認識している、写真や映像を撮るときのよくある状況と一致しているじゃないか。私が、カメラを持った私を入れて、友達の人数を数えるときの、あの状況に。

だからもしかすると三脚の定点無人カメラで撮られたメイン動画にも、私たちはこの構造を錯覚してしまっているのかもしれない。

私たちはなんとなく、カメラがあると、その後ろ側にいる人間の存在を数えてしまう。そのせいで、全員がカメラの前にいる状況に、少しだけ違和感を覚える、のかも。

 

ただ、付け足しておくとすれば、この現象が起こるのにはいくつかの条件がある。

一つ目に、思うに6人という人数がパッと見たときに認識しづらい気がする。5人以下なら1人少ないときにすぐ認識できるし、全員揃っているときに1人少なく感じることも、経験上少ない。

5人組は戦隊モノやアイドルによく見られる編成で、並んだときにセンターが1人、両脇に2人ずつ、となるので見た目も綺麗だが、6人組はセンターを2人で割らなきゃいけなくなるので、視覚的に若干ズレたような感じがする。

そのせいか、全員がテーブルのまわりにぐるりと横並びになって撮影していた旧・てつや邸の撮影部屋のときは、全員揃っていることが認識しづらかったのに対し、ソファに3人、地べたに3人の2列で動画を撮るようになった現在の撮影部屋では、センターが発生しているおかげでその頃に比べると全員いるのが認識しやすい、ような気もする。それでももちろんなんだか1人足りない感はあるのだが。

二つ目に、前述したように東海オンエアが「全員いたりいなかったり、後ろにいたりいなかったりする」という撮影形態をとっているということが大きい。しかも全員揃う頻度がまた絶妙に錯覚を呼ぶ。

東海オンエアより人数が多いフィッシャーズを例にとると、フィッシャーズは7人全員揃うことが滅多にない。その頻度が低いせいか、全員集合の動画をたまに見ると「なんか多いな」という感覚にむしろなる。

参考になりそうなクリエイターがいないので今のところ不明だが、逆に絶対に毎回全員がカメラに映っている6人以上のグループYouTuberがいた場合、この“逆”座敷童現象は起こらないのではなかろうか。もしそういうグループを知っていたら教えてほしい。

 

そんなところで、私たちは東海オンエアに、幻の7人目の存在を勝手に作り上げてしまっているのではないかと思う。別に先述の私の理論立てだけでも納得できないこともないが、私はこの本に書いてあった「幻のもうひとり」の概念にとても暖かさを感じた。

YouTuberの世界にはもはや、被写体とカメラマン、タレントとプロデューサー、表方と裏方なんていう役割分担はなく、カメラの画角に登場する一人一人が、同時にその裏側から彼ら自身を映し出し、編集し、演出するという役割を担っている。

それに彼らは友達同士で、じゃれあうようにお互いにカメラを向け合い、そのレンズの裏側に回って友達を見守る存在にいつだってなれる。だから多分、カメラの後ろ側にも、常に彼らはいる。一人一人が、常に幻のもうひとりなのだ。

6人という中途半端な人数がそうさせているんだろと言われたらそこまでだが、私は彼らの人間関係ごと愛している視聴者たちが、無意識のうちに、友達を撮影するもう1人の彼らをカメラの後ろに数えてしまっている説を推したい! と思った。

 

2019.10.12(台風の日の早朝に) みやかわゆき

 

 

参考:「21世紀の民俗学」(著・畑中章宏)