骨足りないし心臓多い

考えてること書く

自分を巡るカルチャーと身体 第二回[千晶→正しい倫理子1]

千晶です。
往復書簡が始まったので、ブログを開設してみました。往復書簡、第一回はこちら→http://rinriko-web.hatenablog.com/entry/2016/05/09/103521
お誘いをくれた(というか私が勝手に「やりたい!」って突撃したのを快く返してくれた)のは同い年でライターの倫理子ちゃん。最初ツイッターで見てて「同い年で、こんなに分かりやすくて軽快で中身の詰まった文章を書ける人がいるのか…!」とビビっていた。でも、会ってみたらなんかちゃんと同い年って感じの人だったしチャーミングだった。まだ一回しかお話したことないけどきっといいお友達になれそうです。
文章、正直言ってあんまり自信がないので、そんなに綺麗に書けるか分かんないんですが、とりあえずそのいいお友達に手紙を書くつもりでやってみようと思います。往復書簡なんだから、そうよね。

倫理子ちゃんからリンクで飛んできたけど、お前は誰なんだよ、という皆さんに向けて、自己紹介させていただきます。10割どうでもいいこと書きます。
私は一応演劇を勉強している大学生ですが、演劇自体のことにはそこまで詳しくなく、どちらかというと人権とかジェンダーとか、あとたまに宗教とか、そんなことばかりこねくり回している人間です。昨年度まで死に物狂いでミュージカルなんか書いていました。これからの人生もきっと作っていきますが、製作行為に対してホリック気味になってしまったので今は休戦中です。脚本、演出、作曲をやってます。劇作を専攻しているのに、言葉より空間と時間のほうが好きです。
もっとどうでもいいことを言うと、無類の女体好きでスケベ野郎です。生活に使用している身体は女ですが、意識としては性別が特にありません。交際契約は持ちませんが女体ユーザーに恋をします。

さてこっからお手紙です。


千晶から正しい倫理子ちゃんへ


今回はお誘いどうもありがとうございます。「歴史」と「身体」に関心が高いということで、こないだは色々興味深い話を聞けて、貴重な体験が出来たなと思います。
演劇にも興味を持って頂いてるようで嬉しい。
すごく素敵なお手紙いただいたので、私も全身全霊で返していきたいと思うのですが、そうすると、必然的に、全力でエロの話をすることになります。大丈夫ですかねコレ。R指定のつくような内容にはなりませんけど、相当マニアックかもしれないです。とりあえず書いてみます。

空間創造大好き人間といたしましては、「身体」を単独で深く考えたことがなかったな、という感想です。演出をしているときに、「役者の身体をいかに邪魔してやろうか」とはいつも思います。役者の身体を邪魔して、制約をかけるような空間演出は大好きです。身体の魅力が引き立つから。これを超えないとあっちに行けない、とか。やたら狭い、とか。これが邪魔で向こうが見えない、とか。そういう制限されたときの動きっていうのはすごく艶かしい。
そういう感じなので、私が身体をどう捉えているかというと、恐らく「空間があってそのなかに身体がある」ぐらいの距離感だと思う。しかも、エロ担当として。

演劇の話だし私は劇作を専攻しているのに、今回は言葉の存在をガン無視して話してみようと思う。だから演劇作品の「空間」についてだけ語る。しかも、そのなかでエロスについてばかり話してみる。となると、小竹信節と飴屋法水の「ミュンヒハウゼン男爵の大冒険」みたいな作品を例に出さずにはいられない。あれ、身体がないから。公演が、全部、舞台美術と音だけで構成されてる作品なんです。役者がいないの。
私はあの作品の一部を講義で見たっきりなんですが、すごく気に入っていて、なんでかというとものすごいエロいからです。舞台上にエロいものがないと楽しくないじゃないですか、少なくとも私は楽しくないです。でも、何をエロだと感じるかってすごい人それぞれで、私は女体も好きだけど、業務用両替機みたいなメカニックもめちゃくちゃエロだと思ってたりするんですよ。「ミュンヒハウゼン男爵の大冒険」はそういう業務用両替機的なエロスがたくさんあります。つまりこの舞台の美術はメカニックなんです。単純な連続運動をする大量のメカニックがガシャガシャ音を立てて舞台上を暴れまわる。エロすぎ。(9割の人に理解されないんですが、たまに「え、メカはエロいでしょ」って自明の理みたいに答えてくる人が1割います。)

空間のなかに存在している物質、を、私が勝手に分類する、と考えたとき、身体とメカニックはおんなじエロス担当です。エロの話をしている、となると、「行為」であるとか「見える範囲」の話なのかな、みたいに思われがちなんですが、私にとっては女体もメカもただそこに存在しているというだけで充分エロスに貢献していると思うので、これはかなり物質的な話だし、強制的な性的表現ではなく、受け手にエロかどうかの判断を委ねる話なのかもしれない。

「身体」について語れ、と言われてエロの話をする、っていうなんか最低な内容になっている気がするのですが、大丈夫ですかね。身体の性的搾取と誤解されかねない! でも私はエロスとセックスの話は茶化さず真剣にやれ、笑い話にするな、がモットーなので、ここから少し真剣に言い訳していきたいと思います。

私は、芸術における身体のエロの成立に関しては、エロ発信側とエロ受信側のあいだに、ちゃんと透明の膜が張っているかどうか(演劇で言うところの「第四の壁」つまり舞台と客席のあいだにある見えない壁)がとても重要なんじゃないかなと思っています。
透明の膜があるっていうのは、どういうことかというと、エロに関して非常に自由な送受信ができて、かつ、そこで生じるエロスが、不可侵な「作品」という形でもって完璧に守られるということです。
発信側:舞台上に立つ役者などの空間と物質だとします。そこにはちなみに演出者の意図も内包されています。伝わるかどうかは別として。
受信側:見に来たお客さん。
このとき、何をエロとして発信しても受信してもいいんです。ある人は、「あの役者の指がエロスだなあ」またある人は、「その奥に置いてある黒電話がエロスだなあ」とか、なんでも。でもこれは作品だから、受信側は受信することしかできない。触ったり犯したりできない。してはいけないことに決まっている。というか、しないほうが楽しい。見て、心がザワザワするのをどんどん貯めていくから、自分の中がいっぱいに満たされる。エロの話ばっかりしてますけど、このとき観客の中を満たすのはエロばかりじゃありませんよね、当然。でも、その全てに言えることは、芸術鑑賞の観客は、透明の膜があるから、作品に対して自分の身体の権利を失ってて、受け手としての姿勢を崩すことができないということ。だから最高に楽しめるっていうところです。
話を戻して、エロの送受信に関してだけ言えば、作品じゃなかった場合それは透明の膜が張ってないから、双方に身体の権利があるからセックスになるんじゃないかなあ、と思います。セックスはコミュニケーションだから、性的搾取や強制になる危険性も充分孕んでいるし、責任が問われることです。それが作品だとイノセントに無責任で楽しいなあ、と思う。いや、アートのエロスもコミュニケーションのエロスも、どちらも趣深いですね。あとどっちもめっちゃむずい。

以上のことが、私が今のところ身体と聞いて想起するお話でした。
最後に少しだけ、前回の倫理子ちゃんのお手紙の内容にコメントしたい。
私は表方はそんなにやるのが好きじゃないので、役者はたまーに信頼できる人のとこでしかやりませんが、色んな役者の話を聞いていると、「役をやっていても絶対に徹頭徹尾そこにいるのは自分」という感じの意見はよく聞きます。「役になりきるなんて嘘」だそう。だから、彼らは「役が乗り移ったかのような迫真の演技」をしているとき、普通の人間が普段の生活でしている何十倍も、自分の真実の身体を意識して、ものすごく高度な技術で操縦している、といったほうが近いのかもしれない気がしています。いや、やっぱりそれってめちゃくちゃエロスだな。芝居観たくなってきてしまった。
今度、うちの大学で演技をやっている子と倫理子ちゃんを喋らせてみたいなあ。
長くなりました。このへんで終わり。

千晶より。ちなみにこの記事、大学の美術学科の人に粘土で私の顔を作られながら書いていた。