骨足りないし心臓多い

考えてること書く

社会

こないだ社会人になりました、会社に勤めています。あなたは社会の一員なのよ、それらしい振る舞いをしなさい、自分のことに全て責任を持ちなさいと毎日言われるごとに、トイレの鏡で襟を正すようになったしハンカチを持ち歩くようになったしリュックのポケットを開けっ放しで駅を歩かなくなった。大学生だった頃より世界に対して肌が敏感になった、すぐに何かを感じる、考える、演劇が、人が、尊く感じられるようになった、就職してよかったなあと思う。

吸血鬼の話によく出会う

後輩にチケットをとってもらって宝塚歌劇団の「ポーの一族」を観てきた。ネタバレかもしれないので一応これから見る方は注意。

 

 

吸血鬼と何か縁深いのか、好きな作品の吸血鬼率がすっごい高い。私が生まれて初めて心酔したドラマである、児童小説「ダレン・シャン」もヴァンパイアの話。あと、ストーリー展開には「なんなんだ?」って思っちゃうけどどうしても好きで好きでたまらない映画も「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」。どうしようもないレスタト様が大好き。今日も"ポー"観ながら何度もレスタトのことを思い出してしまった。彼はこの世に存在する創作キャラクターのなかで多分一番どうしようもない奴だと思う。それから、小学校時代から私のバイブルである少年漫画「パンドラハーツ」、を、書いていた望月淳先生の最近始まった新連載「ヴァニタスの手記」もなんとヴァンパイアもの(めちゃくちゃ面白い、オススメ、まだ単行本4巻までしか出てないので買うなら今)だった。

 

こっからやっとポーの一族の話。まず、クリフォード医師が強烈だったな。なんというかこう生殖とヘテロセクシュアルの権化みたいな…笑

彼みたいな女癖が悪い以外は欠点なしのエリートとして描かれている人間、しかも医師が、バンパネラたちに「お前たちは実在しない」って言い放つの、パワーがありすぎてニコニコしてしまった。いまわに「お前たちはどうして存在しているんだ?」って、医師〜〜!すごい、そこが気になっちゃうんだね、すごい。医師……。吸血鬼っていうモティーフ自体、そういうリアルな生物的なところからあんまり離れずにファンタジーが出来るところがすごいと思う。クリフォードだけがシーラが鏡に映ってないことや脈がないことにいち早く気がつくのも面白かった。生物っていうものに人一倍の関心がある彼に、理解不能の生物バンパネラが対峙する、アツい、アツすぎる。

 

ド頭から気になったのは、「愛」と「永遠」の二点セット。自分たちが何者なのか(これはクリフォードにのちにえぐられる「存在」っていう点か)不安を訴えるメリーベルに対して、ハンナは「みんなお前を愛している」という言葉で納得させる。シーラは「愛がなければ生きてはいけない」ということと「永遠に男爵と添い遂げる覚悟がある」ことを繰り返し歌う。「愛」とか「永遠」とか、宝塚の人たちが言ってると「そうだね」ぐらい当然に納得してしまいそうになるんだけど、ちゃんと違和感があったのが面白かった。

愛があればそれでいいのか?長く生きることは本当に幸せか?みたいな、素通りしそうな綺麗事に、ちゃんと疑問を持ってくれるのって、私みたいな捻くれた日陰者にはかなり嬉しい。

マジで「愛が全て」に逃げちゃうことって結構破滅的だよなと思うし、その言葉の呪縛によってメリーベルってどんどん不幸になっていったよな……でも彼女はアランが一族に入ることを止めてあげたり、永遠の恐ろしさを誰よりも深く理解していたし、兄が自分のために吸血鬼になったことにも負い目を感じていたんだろうな、それも愛されてる子だから出来ることなんだけど、彼女は生きれば生きるほどずっと寂しさに苛まれ続けるんだろう。なにもかも一言では語りつくせない悲劇だ……。

「吸血鬼」のモティーフ、突飛な設定と思いきや多分人間存在を問いただしてくれるものすごい力があると思う。

 

あと、「愛」と切っても切れない概念として登場するのが、タイトルにもなっている「一族」という言葉。「一族だからなんだよ!?は!?」と思いたくなる暴力的な使い方がされていて良かった……実際世界では「家族なんだから」が平気で振りかざされているよね。あー分かるなーと思いながら見ていた。でも、結局吸血鬼の集団がしがらみの重さに負けて「仕方ねえ、協力してやるか」ってチームとして完成したり、結局やっぱダメで分裂したりするのすっげえ好き("インタビュー"がその点についてマジで死ぬほどグダグダだったので"ポー"落ち着いててすごいなとすら思った)。

「愛」として語られているほとんどが「寂しさ」な気がした。寂しいから仲間を増やす、長い寿命を慰めるために同じ呪いを共に過ごしたい人にかけ続ける。寂しいとか愛とかそういう気持ちそのものが呪いなんだろうな。

 

なんでやたらと吸血鬼の作品に惹かれるのかなってことについて深めに考えてみる。さっきクリフォードについて「生殖とヘテロセクシュアルの権化」って言ったけど、その彼(生物学的に非合理なように思われるものを否定したい人)に「お前たちは実在しない」って目の前で言い放たれるって、多分吸血鬼は「生殖しない人たち」のことなのかなーって感じがする。ゲイとかその他諸々。ライフスタイルも世間一般と合わない、正体を隠さないと怖がられるから、土地を転々としないといけない。最後にエドガーとアランが二人で生きていくことを選ぶけど、二人は別に恋愛関係ではないし、そういう、大多数や凝り固まったステレオタイプからしたら理解不能、恐怖、の、対象。私は吸血鬼に超共感する。「お前たちはどうして存在しているんだ?」って、聞かれてもこっちが聞きてえし、「昔からいた」そう、ずっといた、昔からいるよ〜、今急に発生してね〜よ、みたいなね。理解不能とどう折り合いをつけていくのか、そういう普遍的なものを、吸血鬼モティーフには感じる。

 

愛と永遠の若さ、家族、の醜さ。あんなに醜いものをあんなに美しい人たちがやってくれる皮肉が最高だった。宝塚も最も美しい"あのとき"を閉じ込めた舞台上の姿をスターが代替わりしていくところだし、生殖や男女を除外した世界だから、彼女たちがこの作品を演じることってとても意味があると思った。

見てよかったなあ、これからも吸血鬼たちを愛していきたいと思った。

3月が恨めしい

新潟県南魚沼市、舞子でスキーして帰りがけに劇作コースの追いコン。雪をあんなに見てもやっぱり春だなあって意識は抜けないもんなのね。

後輩に「卒業おめでとうございます」なんて言われるのつらくて聞かないようにしていた。この卒業は今までのどの卒業よりもかなりしんどい、なんでだろうなあ。

全部終わっていくのが、全部はっきり変わっていくのが、(とか、自分が変えようとするのが)今までで一番分かってしまう、明確に。

高校生ぐらいまで、大人みたいに全てのことを明確に理解して感情や感動に変えようとしていたけど、22歳にしてもうそれが必要なくなってきた、むしろ感じてしまうものを無視しようと必死! 別れがつらいってほどじゃない、そんな具体的な感情じゃない、でも、悲しいとか、仲間にありがとうとか、楽しかったねとか、これからもよろしくねとか、そんなところまで辿りつけるのに数ヶ月要りそう。でも3月は1ヶ月の長さで去ってしまう。あー。3月、恨めしい3月。

動悸のことを考える

4年前の診断以来、頑なに貧血ということにしていた動悸、ふらつき、めまいなどの症状が、WPW症候群のせいだったことが先日判明。

 

WPW症候群とは

https://medicalnote.jp/diseases/WPW症候群

 

貧血の診断が降りる前年には実は高校の健康診断で「動不整脈」と言われており、WPW症候群は発覚しなかったものの、既に5年前から私には頻脈の症状がつきまとっていたらしい。

そんなこともあって、私は身体の中で異様に心臓の存在感を感じるようになっていた。きっかけは4年前、貧血の診断が出たときで、当時私はかなりの鬱傾向にあった。人間の感情と身体状況は相関関係であるということを母から聞いた。母は不整脈で、私の小学校受験期にはストレスが重なって脈拍が飛ぶ症状が重くなり、一度私に「ママに何かあったらここに電話して」と実家の電話番号を渡してきたこともある。心臓に具合が悪いところがあると、大したことはないのに「死ぬんじゃないか」という思考に支配される。私も動悸のせいでその感覚は痛いほど分かり、当時の母の心中を察した。

人はつらいことがあったりショックを受けると心臓がバクバクするが、私の場合は心臓が勝手にバクバクして、気持ちもつらくなってしまう。4年前の状況を考えると、身体状況だけが単純な原因ではなくて、鬱状態になっても仕方ないようなストレスや負荷はかかり続けていたのだが、身体と精神の負のスパイラルは厄介だった。気休めに、「動悸がする」と口に出したりツイートしたりする癖がついた。私の気持ちがつらいのではなく、動悸がしているだけ。身体状況が狂っているだけで、私は本当は大丈夫、と自分に言い聞かせるために。

その癖のおかげで私には心臓がある、という意識が強くなった。さらにはWPW症候群の診断で、興奮を伝える異常な伝導路、ケント束の存在感まで(タバコみたいな名前だよね)。見えないもののことをこんなに意識するのは気味が悪い。自分の内側にあるものの形を想像するなんて、しなくていいならしたくない。

心臓のことで思い出すことはもう一つある。「ゾウの時間、ネズミの時間」という小学生の頃に幼馴染の家でちらっと目にした本。読んだかどうかも覚えていない。ただ、速く心臓が脈打つ動物は時間の感じ方も速い。そして速く死ぬ、逆も然り。相対性理論とかの話だったのかな。今隣屋 http://tonaliya.com でやっているミュラーの「ハムレットマシーン」でも、オフィーリアの心臓は時計って言う。一回心臓が脈打つたびに死に近づいているんだろうか、だとしたら私は人より多く進んでしまっているんだろうか、という想像をしてみる。別段嫌な感じはない。心臓って詩的な存在だ、心だもんなあ。

 

d-倉庫のハムレットマシーン http://www.d-1986.com/HM/index.html

隣屋予約フォーム(私はいつも通り音楽演出、作曲) https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdLSuvfumyVwrax210ISuoye86mf4hehuSeQhROARBJ0YxG7g/viewform?usp=send_form

自分を巡るカルチャーと身体 第四回[千晶→正しい倫理子2]

自分を巡るカルチャーと身体 第一回[正しい倫理子→千晶1] - SEPPUKU Web

自分を巡るカルチャーと身体 第二回[千晶→正しい倫理子1] - 未定

自分を巡るカルチャーと身体 第三回[正しい倫理子→千晶2] - SEPPUKU Web

 

ご無沙汰してます。

学校での上演のために、共作で脚本を書いていたのですが、これが想像を絶する大変な作業(深夜までマックやらLINEのグループ通話で打ち合わせして、終わったらそこから朝まで書くみたいな)で、全然返事ができませんでした。でも、一応その執筆が終わったので、今度は個人の課題に取り掛かっているところです。休む暇がないですが、書けるというのは嬉しいことですね。学生最高!

 

千晶から正しい倫理子ちゃんへ

 

 何を隠そう私もBLが好きなので、BLの話で返そうと思ったのだが、どうしても身体の話に繋がらなかったので書き直している。気付いたらホモソーシャルについて熱く語っていたので別で公開しようかな。

 前回はエロの話をした。それに対して倫理子ちゃんが広く嗜好という話題で返してくれた、ので、今度はさらに自分自身の身体に迫っていこうかと思う。ジェンダーとセクシュアル、またそれ以前の単純な造形という視点でだ。

 自分自身の身体という話題は、私の中で非常にホットだ。私の身体はいわば未開の地。今やっと船が岸辺に着き、まさに開拓を始めようとしているところだ。これまでの人生、私は身体を封印してきた。しかし、封印するというのは、ある意味で身体に対する強い意識があった。自ら開いてしまいそうになるパンドラの箱を、全力で押さえつけようとする強い力が働いていた。私にとって、自分自身の身体はタブーだった。

 今回は、そんなタブーを自ら破ろうとした話をしようと思う。

 

 私自身の複雑怪奇な″性別″について、一言に説明するのは不可能だが、言葉を尽くしてそれに近い何かを表すことは出来る。これもつい最近分かったことなのだが、どうやら私は何種類もの″性別の行動様式″がかわるがわる表出してくるジェンダーらしい。ある場面では女の行動様式を取り、ある場面では男の行動様式を取る。またある相手に対しては、男(ないし女)の行動様式を取る、という場合もある(このときの相手の性別と、表出する私の性別は一切関係がなく、ランダムである)。また全く不規則に気分で表出する性別が変化する場合もある。これらの全ては私の意思とは関係なく起こってくるので、操作できず、また、ほとんどの場合無自覚のなかで変化している。たまに変化が実感されて、「あれ、おかしいな」とか「気持ち悪いな」と思うときがあったが、「人間誰しもこの程度の変化はあるだろう」ともみ消してきた。しかし冷静に考えてみると、みんながみんなこんな風に性別が揺らいでいるはずもなかった。

 他人から見て、この性別の変化はそんなに気になるほどの変化ではないらしい。指摘を受けたことは、記憶する限りでは一度もない。幼少期は性別の揺らぎが顕著だったので、写真を見るだけでそのときの性別が分かるほどだが。(その写真を見ていて、今は偏見や常識にまみれているけれど、本来はそういうジェンダーだった、という認識に辿りついた)

 ただ、私が自認する性別は「男女のどちらでもない、あるいは中性」である。揺らいでいるのは行動様式という表出だけだと思う。

 

 さらに私の性別が複雑怪奇なのは、性自認とはまったく別で、トランスセクシュアル的な「自分の身体に対する強烈な違和感」があるところだ。

 私はしょっちゅう、「性別とは美意識のことである」という言説を唱えている。私の行動が男になったり女になったりするのが、そうやって変化したほうが美しいと思うからであるか? と聞かれるとあまりにコントロール不能なので「ううん……それはどうなんだろう」と言うしかない。分からない。

 

 そして、身体の造形に対する違和感も、大元は美意識なのではないかと思っている。

 私は美意識という言葉を、「好き好み、美しいと感じる他者の造形」のことではなく、「自分自身がこうあるのが美しいと感じる自分の造形」に限って使う、ということを一応念頭に置いて聞いてほしい。

 小さい頃、クラスでも特別背が低く、周りの子に比べて体格も良くなかったが、大人になれば長身になると信じ込んでいたし、きっと今にすらりと凹凸のない身体になると信じ込んでいた。女性的な丸みやふくらみ、小ささは私にとっては想定外だった。

 でも、私の身体は女である。今でこそ、身長は日本人女性の平均、体重は平均よりかなり軽く、身体の凹凸も少ないほうであると思う。が、それでも私の身体には現実が重くのしかかっていた。私は自分で自分にふさわしい身体、つまり美意識に叶う身体にはなれないのだ、どんなに頑張っても。

 

 不可能を悟ったときの人間は面白い、と、私は自嘲的に思う。多くの人に分かるように説明しようとすると、多分、「人は死を逃れられない」と悟るのと似たような感じだと思う。そのことを常に意識していたら生きていけないから、「思い出すのはたまに」にする。つまり、自分自身の身体をパンドラの箱に押し込んで、蓋をガムテープでぐるぐるに止めてしまったのだ。思春期に、生理が来て、身体が変わって、身長が160に辿りつかずに止まり、おそらくそれ以上耐えられなくなって、無意識のうちにそうしたらしい。

 

 ついこないだ、自分の身体の小ささに驚いた。久しぶりに箱を開けてしまったのだ。自分の身体だから、相対的に客観的に評価することはできないが、「これが自分の身体であると意識する」とどうしようもないやるせなさが迫ってくる。自分で思っているより一回りも二回りも絶対的に身体が小さい。あるはずのないふくらみが存在している。(しかし、男性器がないことには違和感がないので、私は性同一性障害にはぎりぎり分類されないのだろうな、と思っている)

 私はまたそっと蓋をする。乳房や太ももの脂肪を取り除くにはどうしたらいいんだ、どういう手術が、どれだけお金が、という思考だけが箱の上に転がって残る。華奢な骨格はこうして生まれてきた以上、どうすることもできない。

 

 誤解のないように言っておくが、私は醜形恐怖症とかの類ではないように思う。私は私の身体を美しいと思う。でも、その美しさは私の「美意識」にはそぐわないのだ。「美意識」にはセクシュアルが複雑に絡みついている。私の性別は男女のどちらでもない何かである。私は私の身体が何を夢見てこんなに苦しんでいるのか、正直よく分からない。どれだけ振り払おうとしても「美意識」は消えない。これはこじつけだけど、「美意識」が消えないから、どうにか現実の欠陥を補完しようとしたり、諦めたりして、私の行動様式はふらふらと男女の両方を表現しているんじゃなかろうか、そんな気がしないでもない。

 

 倫理子ちゃんが「自分の身体のことやセクシュアリティーは意識したり言葉にしたりしない、それで苦労していないから」と書いていたので、あえて対極を行く私の「身体の悲劇」について書いてみた。意識したり言葉にしたりしなくても困らない人には、是非とも身体と仲良く付き合っていってほしい、という思いがある。倫理子ちゃんも身体との愛憎を繰り返している印象だけれど。

 私は果たして死ぬまでに身体と和解できるのだろうか? 老いて醜くなれば、美意識なんて朽ち果てるのだろうか? でも、それはちょっと悲しい、とか思ってしまう、これも私と身体の愛憎なのである。

 

 今日はこのへんで。夏休みにでもまたご飯行こうね!

 

千晶より

自分を巡るカルチャーと身体 第二回[千晶→正しい倫理子1]

千晶です。
往復書簡が始まったので、ブログを開設してみました。往復書簡、第一回はこちら→http://rinriko-web.hatenablog.com/entry/2016/05/09/103521
お誘いをくれた(というか私が勝手に「やりたい!」って突撃したのを快く返してくれた)のは同い年でライターの倫理子ちゃん。最初ツイッターで見てて「同い年で、こんなに分かりやすくて軽快で中身の詰まった文章を書ける人がいるのか…!」とビビっていた。でも、会ってみたらなんかちゃんと同い年って感じの人だったしチャーミングだった。まだ一回しかお話したことないけどきっといいお友達になれそうです。
文章、正直言ってあんまり自信がないので、そんなに綺麗に書けるか分かんないんですが、とりあえずそのいいお友達に手紙を書くつもりでやってみようと思います。往復書簡なんだから、そうよね。

倫理子ちゃんからリンクで飛んできたけど、お前は誰なんだよ、という皆さんに向けて、自己紹介させていただきます。10割どうでもいいこと書きます。
私は一応演劇を勉強している大学生ですが、演劇自体のことにはそこまで詳しくなく、どちらかというと人権とかジェンダーとか、あとたまに宗教とか、そんなことばかりこねくり回している人間です。昨年度まで死に物狂いでミュージカルなんか書いていました。これからの人生もきっと作っていきますが、製作行為に対してホリック気味になってしまったので今は休戦中です。脚本、演出、作曲をやってます。劇作を専攻しているのに、言葉より空間と時間のほうが好きです。
もっとどうでもいいことを言うと、無類の女体好きでスケベ野郎です。生活に使用している身体は女ですが、意識としては性別が特にありません。交際契約は持ちませんが女体ユーザーに恋をします。

さてこっからお手紙です。


千晶から正しい倫理子ちゃんへ


今回はお誘いどうもありがとうございます。「歴史」と「身体」に関心が高いということで、こないだは色々興味深い話を聞けて、貴重な体験が出来たなと思います。
演劇にも興味を持って頂いてるようで嬉しい。
すごく素敵なお手紙いただいたので、私も全身全霊で返していきたいと思うのですが、そうすると、必然的に、全力でエロの話をすることになります。大丈夫ですかねコレ。R指定のつくような内容にはなりませんけど、相当マニアックかもしれないです。とりあえず書いてみます。

空間創造大好き人間といたしましては、「身体」を単独で深く考えたことがなかったな、という感想です。演出をしているときに、「役者の身体をいかに邪魔してやろうか」とはいつも思います。役者の身体を邪魔して、制約をかけるような空間演出は大好きです。身体の魅力が引き立つから。これを超えないとあっちに行けない、とか。やたら狭い、とか。これが邪魔で向こうが見えない、とか。そういう制限されたときの動きっていうのはすごく艶かしい。
そういう感じなので、私が身体をどう捉えているかというと、恐らく「空間があってそのなかに身体がある」ぐらいの距離感だと思う。しかも、エロ担当として。

演劇の話だし私は劇作を専攻しているのに、今回は言葉の存在をガン無視して話してみようと思う。だから演劇作品の「空間」についてだけ語る。しかも、そのなかでエロスについてばかり話してみる。となると、小竹信節と飴屋法水の「ミュンヒハウゼン男爵の大冒険」みたいな作品を例に出さずにはいられない。あれ、身体がないから。公演が、全部、舞台美術と音だけで構成されてる作品なんです。役者がいないの。
私はあの作品の一部を講義で見たっきりなんですが、すごく気に入っていて、なんでかというとものすごいエロいからです。舞台上にエロいものがないと楽しくないじゃないですか、少なくとも私は楽しくないです。でも、何をエロだと感じるかってすごい人それぞれで、私は女体も好きだけど、業務用両替機みたいなメカニックもめちゃくちゃエロだと思ってたりするんですよ。「ミュンヒハウゼン男爵の大冒険」はそういう業務用両替機的なエロスがたくさんあります。つまりこの舞台の美術はメカニックなんです。単純な連続運動をする大量のメカニックがガシャガシャ音を立てて舞台上を暴れまわる。エロすぎ。(9割の人に理解されないんですが、たまに「え、メカはエロいでしょ」って自明の理みたいに答えてくる人が1割います。)

空間のなかに存在している物質、を、私が勝手に分類する、と考えたとき、身体とメカニックはおんなじエロス担当です。エロの話をしている、となると、「行為」であるとか「見える範囲」の話なのかな、みたいに思われがちなんですが、私にとっては女体もメカもただそこに存在しているというだけで充分エロスに貢献していると思うので、これはかなり物質的な話だし、強制的な性的表現ではなく、受け手にエロかどうかの判断を委ねる話なのかもしれない。

「身体」について語れ、と言われてエロの話をする、っていうなんか最低な内容になっている気がするのですが、大丈夫ですかね。身体の性的搾取と誤解されかねない! でも私はエロスとセックスの話は茶化さず真剣にやれ、笑い話にするな、がモットーなので、ここから少し真剣に言い訳していきたいと思います。

私は、芸術における身体のエロの成立に関しては、エロ発信側とエロ受信側のあいだに、ちゃんと透明の膜が張っているかどうか(演劇で言うところの「第四の壁」つまり舞台と客席のあいだにある見えない壁)がとても重要なんじゃないかなと思っています。
透明の膜があるっていうのは、どういうことかというと、エロに関して非常に自由な送受信ができて、かつ、そこで生じるエロスが、不可侵な「作品」という形でもって完璧に守られるということです。
発信側:舞台上に立つ役者などの空間と物質だとします。そこにはちなみに演出者の意図も内包されています。伝わるかどうかは別として。
受信側:見に来たお客さん。
このとき、何をエロとして発信しても受信してもいいんです。ある人は、「あの役者の指がエロスだなあ」またある人は、「その奥に置いてある黒電話がエロスだなあ」とか、なんでも。でもこれは作品だから、受信側は受信することしかできない。触ったり犯したりできない。してはいけないことに決まっている。というか、しないほうが楽しい。見て、心がザワザワするのをどんどん貯めていくから、自分の中がいっぱいに満たされる。エロの話ばっかりしてますけど、このとき観客の中を満たすのはエロばかりじゃありませんよね、当然。でも、その全てに言えることは、芸術鑑賞の観客は、透明の膜があるから、作品に対して自分の身体の権利を失ってて、受け手としての姿勢を崩すことができないということ。だから最高に楽しめるっていうところです。
話を戻して、エロの送受信に関してだけ言えば、作品じゃなかった場合それは透明の膜が張ってないから、双方に身体の権利があるからセックスになるんじゃないかなあ、と思います。セックスはコミュニケーションだから、性的搾取や強制になる危険性も充分孕んでいるし、責任が問われることです。それが作品だとイノセントに無責任で楽しいなあ、と思う。いや、アートのエロスもコミュニケーションのエロスも、どちらも趣深いですね。あとどっちもめっちゃむずい。

以上のことが、私が今のところ身体と聞いて想起するお話でした。
最後に少しだけ、前回の倫理子ちゃんのお手紙の内容にコメントしたい。
私は表方はそんなにやるのが好きじゃないので、役者はたまーに信頼できる人のとこでしかやりませんが、色んな役者の話を聞いていると、「役をやっていても絶対に徹頭徹尾そこにいるのは自分」という感じの意見はよく聞きます。「役になりきるなんて嘘」だそう。だから、彼らは「役が乗り移ったかのような迫真の演技」をしているとき、普通の人間が普段の生活でしている何十倍も、自分の真実の身体を意識して、ものすごく高度な技術で操縦している、といったほうが近いのかもしれない気がしています。いや、やっぱりそれってめちゃくちゃエロスだな。芝居観たくなってきてしまった。
今度、うちの大学で演技をやっている子と倫理子ちゃんを喋らせてみたいなあ。
長くなりました。このへんで終わり。

千晶より。ちなみにこの記事、大学の美術学科の人に粘土で私の顔を作られながら書いていた。